牝猫たち

 続いて「ロマンポルノ・リブート・プロジェクト」第3弾。白石和彌監督の『牝猫たち』。

 風俗で働く女たちというのを、ロマンポルノでは数多く描いてきた。江戸時代の遊女から、バブル突入直前の都会の女まで、時にはもの哀しく、時にはあっけらかんとしたたかに、女たちはスクリーンから、見ている男たちへ何かを訴えかけてきた。秀作も多い。それらには、なぜ女たちはそこにいるのかと問いかけてきていたからだ。白石監督もそこのところを狙われたんだと思う。ある意味、ロマンポルノをリスペクトするには、格好の題材だろう。
 が、である。この『牝猫たち』に登場する、人妻デリヘルに所属する3人の女性たちには、そんな「なぜ」が見えてこないのだ。根本的に、あんなダメダメの男が経営する店に所属し続けるという、女たちの行動そのものに納得がいかない。東京の池袋って、すぐお隣の大塚も含めて、何千という風俗店があるはずなのに、だ…。
 3人の女性たちは、どうしてそこで働くのか。何を得たいのか。そんなことは、見るものは関係ないのか…。

 確かに、現代社会の病んだ現状、例えば、ネットカフェ難民、子供への虐待、引きこもり、セックスレス夫婦などなど、社会問題も多く盛り込まれているが、それはこの作品の上では飾り物にしかなっていないのだ。唯一、感情移入できたのは、妻に先立たれた老人と表面的には夫婦仲が良好な女性との関係だが、最後に至って、老人が生きていても仕方がないので首を絞めてくれまではいいが、その死に直結する悶絶の中老人のペニスがなんと勃起してしまい、そのペニスで彼女が死姦までしちゃうとなると、おいおいなんか違うだろうと思いたくもなる。
 
 新宿や渋谷じゃなく、池袋。東京に詳しくもないぼくでも、監督の意図は分る。スマートに生きられない女たちがいる町、それは池袋なんだろう。だからこそ、「なんでスマートじゃないんだわたしたち!」というのを、もう少し丁寧に描いてほしかった。
 都会では今夜も、「さ、給料が出たぞ! 今夜は女でも買いに行くか!」とか言ってる男たちが大勢いるに違いない。そんな男たちをぎゃふんと言わせてもらいたかった。それもポルノ映画のあり方だと思うのですが。

                                             フリーライター  宇喜多洋平
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